孤独死不可避の僕が孤独死を考える

こんにちは。もいちです。

生まれてしまった私たちにとって、いつか必ず訪れる死。

自分がどの様な最期を迎えることになるのか。

想像した事はありますか?


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【孤独死】

 

「誰だって死ぬ時はひとりじゃん。」

おっしゃる通りです。

 

ところで世間で言われている孤独死とは。

主に一人暮らしをしている人が誰に気づかれることもなく自宅等で亡くなる事。
死後しばらく経ってから発見される事などを指すらしい。

都市部で隣人に気づかれることも無く、
発見までに時間がかかったなどの事案が増加。

人口の多い地域にありながら他者との繋がりが希薄だったと思われる様子を、
逆説的にそう表現するようになったらしい。

 

そんな世にいう「孤独死」を迎える事になるであろう、
ひとりぼっち人生のもいちです。

 

そんなもいちが思う「孤独死」とは?

 

【某掲示板で見た話】

先日。

とある方のツイートが話題になっていました。

それは看護師だとおっしゃる方のツイート。

 

 

今際(いまわ)の際(きわ)などではすでに意識は混濁し、
周囲にいる人の事など認識できるはずもない。

 

そんな内容のツイートだったように思います。

 

その文面から察するに。
独り者は死ぬ時に寂しい思いをする。
だから伴侶は居た方が良い。
そんな風潮に対しての、現実目線からのツイートのようでした。

 

賛同する声が多かったようにも思います。

ある側面からはそのとおりでしょう。

孤独死は寂しいものだと言っても、
そもそも死ぬ時は一人だというならば。

 

「なるほど」よりも「そうじゃなくて・・・」

僕はそう思うのです。

正しい正しくないではないですよ。

見解の違いと言うのか。

 

親戚だけは多かったもいちです。

幼かった時分に、親族を看取る事も数度経験しました。

 

人が死ぬ様を。
そして周りの大人たちの様子。
子供ながらに興味深く観察していたのを覚えています。

もちろん医療現場で働かれている方達のそれとは、
比べようももありませんけれど。

 

僕がここで訴えたい事。

それはひとりはやはり寂しいでしょという事です。

 

僕自身の置かれている状況から、孤独死は免れないと腹をくくっています。

 

その僕が自身の最期の時を本気で、
それこそ持てる想像力・妄想力の総てを注ぎ込みイメージしてみると。

その虚しさに息苦しくなるほどです。

「孤独死」とは息をひきとるその瞬間、
周囲に自分を看取ってくれる家族や仲間がいるかどうかではないのだと。

このまま部屋で一人死ぬのだとして。
果たして僕がこれまでここで生きた事を、
どれだけの人が知ってくれたことだろう?

 

思うにどこにもいないのじゃないか。
僕は本当にひとりぼっちだったのじゃないか。

数十年といきてきて、
僕がこの世に存在した意味とは一体なんだったのだろうか。

そこまで考えいたると、
その虚しさは筆舌に尽くしがたい。

冒頭の「誰だって死ぬ時は一人でしょ」とは。

かつての知人が僕に言い放った言葉です。

それが悪いと言うのではありませんよ。

ただきっとその言説はテンプレートのように、
どこかでいつか見聞きした、
その人自体にはさほど深く思慮し結果出てきた言葉ではなく。

まあ、そんなものだろう。

きっとその程度のもの。

それは恵まれている証拠でもあるのかとは思います。

まだまだそんな事まで考えを巡らす必要が無いからでしょう。

それこそ「いまを生きている」からなのです。

僕のように四六時中一人でいうと、
要らぬ考えに思考が及んでしまうこともあります。

 

 

 

もしもあなたが。

心のそこから本心で。
誠に偽らざる気持ちで。

本当の本当に一人で生きて、
一人で逝く事を選択されるのならば。

それは尊重されるべきであります。

 

ですが。

あなたが今現在一人なのが。

それが僕のように、決して心底望んだものではないのであるなら。

まだ間に合います、きっと。

今からでも社会との接点を持つべきです。

なんでもいいから。

 

僕のようになる前に。

【僕はどうなるのだろう】

事故死でなければ病死になるのかと想像します。

病に倒れて自らが弱っていく様は、
想像だけでも胸が苦しくなります。

痛みや具合の悪さに意識も朦朧としだしてきて。

そんな状態になったなら、
それまでの人生だの誰も寄り添ってくれないだのは、
どうでもよくなるのかもしれません。

カラダも脳みそもそれどころではないでしょうね、きっと。

心が折れるのも早いでしょう。

どうせ自分きりなのだ。
頑張る必要もないのです。

早く楽になりたい。

そう思うに違いありません。

 

もし自分の死期を悟った時。

ただ自分には社会繋がりが何もなかったなと。

あまりにも人との繋がりが希薄だったと。

そう思い返したなら。

そしてそれを悔いたところで本当にもう遅いのだと、
自覚してしまったら。

 

僕はそんなことを想像したことがあります。

今でもたまにそんなことがふと頭をよぎることがあります。

自分がもうすぐこの世から消えるのだ。

それでもこれまでの数十年間。

まがりなりにも生きてきたけど。

誰も自分のことを認識すらしていないのではないか。

今ここで、なんとか生きている事さえ気づいてもらえず。

そしてこのままここで息を引き取ったとしても、
やはり誰にも気づかれない。

自分が生まれ、ここまで生きた事にどれだけの意味があったのだろう。

自問したなら。

全てを後悔するのではないか。

 

まだまだ現役で。

若く、その気になればやり直すことも出来るかもしれない。

そんな現状だからこそ。

「一人でいい」などとのたまっていられるのでは無いのか。

 

誰かに話して聞かせる必要はないし。

書き残す必要もない。

 

本当の本音がどこにあるのか。

 

孤独死などとネガティブに言うが、誰だって死ぬ瞬間は一人だ。
あの世まで誰かが付き添ってくれるわけじゃない。

 

でも、そうじゃない。

皆に見守られつつ、
温かい雰囲気で最後の時を迎えるのがイイということでは決してない。

 

死ぬ瞬間そのものの状況が孤独なのか、
誰かが看取ってくれるのかは。

そんな事はなんならどうでも良い。

孤独死とは。

生きた事すら無意味だったのではないかと、
思わせるような。

人生の最後の期間に気づいてしまう恐怖なのではないか。

だから死ぬ瞬間にどうなのかで結論づけないで欲しい。

なぜそんな事になってしまうのか?

かつて言われるようになった「孤独死」が差す意味とは。

それはなんだったのか?

あなたまで孤独のままこの世をリタイヤしてはいけません。

 

誰にも気づかれずに逝ってしまってはいけません。

 

あなたは僕ではないのです。

あなたはきっと、僕より恵まれているはず。

それに早く気づいて、そして利用して。

 

 

【まとめ】

今回もいつにも増して、
まったくまとまりませんが。

 

人間は考える葦だと。

フランスの思想家パスカルの言葉。

人間はこと自然界では弱い一茎の葦だが、
考える葦なのだと言います。

僕がこの話しをきいた時に、こう説明されました。

葦は弱い植物で一本では折れやすいが、
群生し寄り添うことで立っていられるのだと。

人間も葦の様に寄り添うことで強くなる、そんな解釈です。

金八先生の4「人」の字の授業に似ていますね。

 

人生とはどれだけの人と会ってきたかだ。

そう言った人がいます。
これは誰の言葉か思い出せません。

これには心を抉られるような衝撃を受けたものです。

僕こそ出会いと程遠い存在だからです。

 

それにはもちろん理由があります。
しかしそんな個人の事情も、
社会には関係のないことです。

自分でどうにか切り開かなければならなかった。

できなかったか、しなかったのか。

あるいはある時期に自らを諦めてしまったか。

 

もいちの様な人生はつまりませんよ。

楽しいことがあってもそれを共有出来ない寂しさも、
なかなか虚しいものです。

インターネットがあって本当に良かったと思います。

僕の様な人種の為にあるのでは無いかと思うほどです。

 

ネットが無かったらと思うとゾッとします。

 

さて。
今回は本当に散文乱文になってしまいました。

ちょっと感情的になっちゃったかな。

それでは今回もここまでお付き合いいただきありがとうございました!
それではまた。
もいちでした。

 


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